反抗期な女子学生
前回のエントリーで、中国の学生は「みんな基本的に素直で真面目」と書きました。
中国でも「教師は尊敬するものだ」という考えは根強いので、学生たちはみんな素直です。
9月上旬には「教師の日」という日があって、その日になると学生たちがプレゼントをくれたり、「教師の日おめでとう」メールをくれたりします。
(何がおめでたいのかイマイチわかりませんが)
ただ、ものごとには例外がありまして。
2年生に一人、ちょっと風変わりな女子学生がいます。
先学期、2年会話授業を担当した時のこと。
最初の授業で、学生の自己紹介も終わり時間も余ったので、「ゲームをやりましょう」と言ったところ、その学生だけが即答しました。「いやだ」
あまりにもナチュラルな「いやだ」でした。
「中国の学生はみんな素直なはずだ」という思い込みがあったのと、日本語発音的にも完璧な「いやだ」だったので、余計に心にずしっと来ました。
ゲームで、自分の番が回ってきた時にも「めんどくさっ」と、これまた凄く自然な日本語が口から漏れました。
中国の女子大学生というより、日本の反抗期の男子中学生を相手にしているような感じです。
学生にはめったに腹を立てない私もさすがにムッとしました。
俺の授業を妨害する気か、と。
授業内容に不満がある学生がいても、その学生一人を満足させるためにいちいち気を使ってたら授業になりません。
それにしても、まだ日本語の勉強を始めて一年程度のはずなのに、発音だけでなく「使い方」も態度も完璧なのです。
言葉と感情が完璧に結びついていて、日本の反抗期の中学生そのもののような態度。
日本に住んだことがあるのかと聞いてみれば、ないと言う。
態度は反抗的ですが、日本語はすごくできる子のようです。
その子に例文を作らせてみると、いつもネガティブな内容です。
例えば、「~し、~し」を使って文を作ってくださいと言えば、「つまらないし、希望もないし、早く死んだ方がいいです。」のような感じ。
一体彼女に何があったのか知る由もありませんが。
日本のNEWSというアイドルグループが好きだと言っていたので、女の子らしい趣味はあるようです。
たまにいる日本語の発音がすごく自然な子は、大体日本のドラマにはまっているので、その子もそうかも知れません。
教師という仕事をしていれば、様々なタイプの学生と接することになるし、それはおもしろいことだと思います。
大抵の学生は「いい子」ですが、「いい子」でなくてもそれはそれでいいと思います。
教師や大人にとって「いい子」というのは、「従順で扱いやすい」というだけかもしれません。
従うべきものとされている教師に露骨に「不満げな顔」を見せるということは、それだけ本音のコミュニケーションを求めているのかもしれません。
その学生とどうやってコミュニケーションをとっていこうか、最近は少し楽しみでもあります。
当世中国学生気質
普段接している中国の学生たち。
基本的にみんな日本が好きですね。
小さい頃から日本のアニメを見て育ち、日本の漫画を海賊版?で読み、日本のゲームにハマり、日本のドラマや歌や芸能人にやたら詳しい。
日本人教師よりよっぽど日本の芸能界に詳しいので、話が合わなかったりします。
日本の流行り物や流行語も意外と知っています。
「オタク(宅男・宅女)」は当たり前として、「萌」「腐女子」「BL」「中二病」「壁ドン」なんてのも大体知っています。
女子の間の「BL」人気は完全に定着している感があります。
ゆるキャラの「くまもん」「フナッシー」も有名。
コスプレ大会はすごい人気で、共産党政府主催で開催されるほど。
おたく的な趣味(アニメ、コスプレなど)を持っている人は、日本だとまだ少し「日陰者」のイメージがありますが、中国ではこれらの趣味は当たり前すぎて日陰者意識はないように感じます。
こうしてみると、日本国内のイメージとは裏腹に、中国こそ「世界一の親日国家」といえるのかもしれません。
日本人がほとんど住んでいないような内陸部の町の少女が、宮崎駿のアニメが大好きで、三浦春馬の大ファンで、青山テルマの歌を歌ってたりします。
中国には、まだまだ若者向けエンタメ産業が発展していないのだと思います。
だから日本や韓国その他の国のエンタメが大人気になり、新しい物好きの中国人に大流行しているのでしょう。(韓流は中国でも人気です)
中国人にとって日本は、一歩先を進む「イケてる国」なんです。
また、中国の学校は日本以上の詰め込み教育です。
(「詰め込み教育」を中国語で「填鸭式教育」と言います。北京ダックの嘴に無理やり餌を詰め込んでるイメージでしょうか)
高校まで部活動などというものはなく、高校生の恋愛は禁止されています。
日本のドラマや漫画を見て、日本の学園生活に憧れているようなふしがあります。
大学にも、日本のセーラー服姿の学生が時々います。
中国ではそれも一つのファッションなのでしょう。
中国の大学はほぼ全て全寮制で、大学構内に学生寮があります。
学生たちはみんな6人部屋や4人部屋に住んでいます。
ほとんどが一人暮らしをしている日本の大学生とは、プライバシーの概念が違う気がします。
寮には門限もあるし、早朝授業前に点呼を取ったり、宿題もたくさんあったり、日本のゆるい大学生活とは比較にならないほど厳しそうな生活をしていますが、それでも「高校時代に比べれば自由になった」とみんな言います。
みんな基本的に素直で真面目な学生たちです。
日本で働くのはストレス
以前にも言ったように、日本国内ではあまり働きたくないなあと思っています。
国内の普通の日本語学校で働いたことがないので、想像でしかありませんが、自分のペースで働けないような気がするんですよね。
私のようなタイプはおそらく、一般的な国内の学校では評価されない気がします。
「人に教えること」と「学生と接すること」は好きなのですが、「社会人としての立ち居振る舞い」にあまり自信がないので、他の先生方や上司、事務方とうまくやっていけるかどうか不安です。
普通の日本語学校で働くとなると、当然「他者との協調」が求められます。
他の先生と引継ぎをしなければならないということになれば、授業が予想外に盛り上がって時間をかけたい時も、自分のペースで進行具合をコントロールできなくなってしまいます。
私(というか在中国日本人教師)の場合、授業でもそれ以外でも、国内日本語学校の先生より学生との「距離」が近いかもしれません。
こちらでは学生たちと時々ご飯を食べに行ったり、自分の家に招いてカレーライスを振舞ったりしています。
中国では、授業以外もできるだけ学生と接してほしいというのが、学校側の姿勢のようです。
中国語も下手だし、中国社会の仕組みがよくわかっていないこともあり、生活上で困ったことがあれば学生に連絡して助けてもらっています。
一方、国内の学校では、学生とプライベートな連絡は一切禁止というところが多いようです。
学生をえこ贔屓しない為の「プロ意識」かもしれませんが、もう少し柔軟に対応してもいい気がします。
もっとも、数年前から売り手市場であるはずの国内日本語学校の面接・模擬授業を数校受け、どこにも引っかからなかったという「結果」が出ているので、国内で働く心配なんかしなくていいわけですが(笑)。
自分が必要とされていない場所にこだわり続けて、下手に何かの拍子に採用されてしまうと、ロクなことが起きないだろうなと経験的にわかります。
日本語教師養成講座に通っていた時のこと。
ある先生に教案をチェックしてもらっていたのですが、その時つい「傘ひとつ」と言ってしまったのです。
先生「TUOLANGさん(私)、傘を一つ二つと数えるんですか?」
私「すみません、一本二本ですね」
先生(教室を見回して)「Kさーん、Nさーん、Tさーん、傘はどう数えます?」
Kさん「一本二本です」
Nさん「一本二本です」
Tさん「一本二本です」
先生(おもむろに振り返り、私の顔を無言で見つめる)「・・・」
あー、怖かったー。
反論したわけでもないのに、傘の数え方一つでここまで追い込まれた・・・。
この先生、普段学生にもこんな教え方してるのかな。学生楽しいのかな。
こういう感じの先生、日本語学校に多いんでしょうか。
この先生が教務主任とかやってる日本語学校に採用されたら、私絶対働くの無理です(笑)。
それはともかく。
中国の小規模大学で働くということは、通常日本人教師は1~2人なので、「他の日本人」とあまり接しなくてもいいということでもあります。
中国の日本人教師の中にも、一緒に働いて勉強させていただきたい経験豊富な先生も一部にいると思うのですが、以前のエントリーで書いたような、コミュニケーションすらままならない変な「先生」もいるわけで、中国でも日本人と会いたいとあまり思わなくなりました。
ただ、他に日本人がほとんどいない環境でマイペースで仕事できて気楽であるという反面、独りよがりで進歩のない授業に陥ってしまう懸念もあるわけです。
そのあたりは常に自覚して様々な手段で研究し、新しいやり方を取り入れる努力は不断に必要だと思います。
「中国人の日本語作文コンクール」応募妨害事件
「中国人の日本語作文コンクール」というイベントが毎年あります。
日本の中国系出版社が主催しているコンクールで、今年で12回目になります。
昨年は中国全土約200の大学から5000人近くが応募しました。
昨年、三等賞以上の入賞者は71人いたのですが、教え子2人が見事入賞してくれました。
うちの大学からは17人ほど応募したのですが、その内2人が入賞というのはなかなかの結果だと思います。
教え子が入賞したことで、私も「優秀指導教師賞」なる賞をいただきました。
入賞という結果は、勿論学生自身のポテンシャルによるものですが、教師としてはたとえわずかな助力であったとしても、こうやって「形」に残る結果というのはやはり嬉しいものです。
自分の教師としての力量がどの程度のものか、客観的評価にあまりさらされることのない場所で仕事をしてるわけですから。
学生にとっても、私にとっても、もちろん大学にとっても?、好ましい結果に終わったはずの作文コンクール応募ですが、実は、応募に際して理解に苦しむ出来事がありました。
この作文コンクール、作文50本以上応募した大学には特別賞として五万円相当の日本語書籍が送られることになっています。
図書館で日本語書籍の貧弱ぶりを目にしていたので、少しでも学生が日本語に触れられればと思い、3年生ほぼ全員(約60人)に応募させようと考えました。
作文の出来不出来に関わらず50人以上応募すれば五万円相当の書籍がもらえるのですから、学生に協力してもらわない手はありません。
指定字数は1500~1600字。
作文が苦手な学生も少なくない中で、なんとかモチベーションを高めてほとんどの学生をコンクールに参加させようとしていた矢先でした。
日本語科主任から「参加するな」との頭ごなしの指示。
作文テーマの一つが「中国の若者は日本のここが理解できない」だったことから、主任が勝手に「政治的テーマの作文コンクール」だと思い込み、過剰反応して一方的に参加禁止を命令してきたのです。
確かに日中関係は政治的に微妙ですが、この作文コンクールはまさにそのような政治的対立を乗り越えて、民間交流を促進していこうという趣旨で開催されているものです。
私自身、日中近現代史は日本人の平均よりかなり詳しく知っているし、この主任が心配しているようなことは百も承知しています。
主任にこのコンクールの趣旨を説明しようと試みたのですが、思い込みが激しいタイプのようで話になりません。
(のちに他の先生から、主任がこの作文コンクールを「右翼の作文コンクール」だと説明していたことが判明し、驚き呆れる)
このコンクールのことなど何も知らないくせに、もし問題がおきたら自分の地位が脅かされるかもしれないという思い込みからくる役人的事なかれ主義で、人の授業を妨害しようとする。
発想が「教育者」じゃなくて「役人」。
教師への信頼もなく、自分の思い込みで授業を妨害し、面子を潰してきたということで(中国人にとって面子は物凄く大切なはずです)、最初は抗議文(謝罪要求)提出を考えました。
謝罪要求が受け入れられないようならすぐに辞表を提出しようかと思いましたが、学期途中で辞めてもすぐ次が見つからないだろうし、この大学は給料もそれなりにいいし、何より学生には罪はないのに迷惑をかけることになってしまうのも忍びないので、抗議は飲み込みました。
他の大学だったら、教育熱心な先生として評価されるような話だと思います。
とにかく、中国全土から200校位の大学が参加してるコンクールでうちの大学だけが参加できない合理的理由が全くありません。
せっかく学生がやる気になってる時に下らない理由で横槍入れられて頭に来たけど、苦肉の策として、団体参加ではなく学生の個人参加にしました。
(学生が個人で勝手に応募するのは自由なはず)
大学側には内緒です。
個人応募になったことで参加者は17人に激減し、当初の50人以上参加、五万円相当の書籍ゲットの目論見が崩れました。
まあ、仕方がないです。
うちの学生2人の入賞が発表された時も、学生や親しい先生以外には話していません。
大学にばれる可能性もあるけどバレたらバレたでそれはそれ。
本来なら自校の学生が賞を取ったのだから、大学にとっても栄誉なはずなんですがね。
主任が自分の間違いを認められるタイプかどうかわかりませんし、そこを認めさせるのに労力を使いたくありません。
賞を取った学生がますます自信をもって(賞を取れなかった学生も奮起して)、日本語学習に励んでくれればそれが一番いいわけですから。
自分の教師としての実績を形に残したい、という欲望ももちろんあります。
教師の仕事は、学生のやる気を引き出す環境を作ることでしょう。
役人的事なかれ主義で雇われてる期間を大過なく過ごせればいいなんて教育者じゃないですよね。
学校の主役は教師や事務ではなく、学生ですから。
作文添削を楽にするために
中国の大学で日本人教師に求められていること
当然ネイティブチェックです。
いちいちやってくださいと言われるわけではありませんが、中国人教師ではなかなか難しい、日本語発音矯正や日本語作文の添削が当然求められているはずです。
発音矯正はその場でできますが、作文添削は毎回何十枚もあり、結構大変です。
私は元々出版社で編集の仕事に関わったり、予備校の現代文模試の採点もやっており、校正や添削は好きな方なので、その点でもこの仕事は向いていると思っています。
ですが、中国人の日本語を添削するとなるとやはり勝手が違ってきます。
作文の授業をやりたがらない日本人教師もいるようです。
学生の作文を添削しない先生もいるようですが、それじゃ何のために日本人が中国で雇われているのかわかりませんね。
手を抜こうと思えばいくらでも手抜きできる仕事ですが、当然学生にも見透かされます。
手抜きしてる先生をリスペクトできる学生も少ないでしょう。
そこで、大変な作業である「作文添削」を如何に楽にやるか、少し考えてみました。
興味深い作文を書いてもらうこと
内容がどれも似たり寄ったりな作文を何十枚も読むのは苦行です。
以前は、「序論」「本論」「結論」を意識した、まとまりのある作文が書けるように指導をしていました。
例えば、「インターネットと私」などというテーマを与え、
第一段落 インターネットの長所を述べる
第二段落 「しかし一方で・・・」インターネットの短所を述べる
第三段落 「これからは・・・。そうすれば・・・。」と結論をまとめる
というように指導するわけです。
当然、誰も彼も同じような作文を書いてきます。
作文としては一応まとまっていますが、無味乾燥で何十枚も読むのが苦痛なんですよね。
何より、学生が書いてて楽しいのだろうか。
学生には、できるだけ作文授業を嫌いになってほしくない、書くことは楽しいと思ってほしいと考えています。
というわけで、今学期の2年の作文はできるだけ「学生個人」にスポットを当てたテーマで書いてもらっています。
今までのテーマは「私の故郷」「私の悩み」「私が知っている○○さんの面白い話」など。
個人の話なら学生たちも書きやすいだろうし、一人一人必ず違う内容なので私も興味深く読めます。
学生一人一人のことをより深く理解できるというメリットもあります。
また、書いたら必ず他の学生と作文を交換し、お互いに感想を書いてもらうようにしました。
学生達はお喋りは好きだけど、作文は一般的に(中国語日本語問わず)苦手です。
なぜか。
お喋りはその場で相手のリアクションが帰ってくる双方向性があるのに対し、作文の読者は通常教師一人です。
その教師も、作文をしっかりと読み込んで適切なリアクションを返せるとは限らない。
学生にとって作文がつまらない理由の一つは、壁打ちテニスをやり続けているようなものだからかもしれません。
作文も、教師だけでなく多くの人のフィードバックが必要だと思います。
多くの「他人の目」を意識するようになれば、作文のモチベーションも変わってくるのではないでしょうか。
まだ今の段階では、段落や中心文を意識した指導はしていません。
学生たちは4年生になったら論文を書かなければならないし、順序だてて文章を書く練習も必要なので、いづれするつもりではいます。
ただ今は、型にはまった書き方を教えて無味乾燥な作文が増えたら嫌だなと思っています。
書くことに抵抗をなくし、型にこだわらずに自由に書いてほしいと思います。
日本国内の日本語学校って本当に必要か?
中国での日本語教師歴3年ちょっと、国内の(普通の)日本語学校で働いたことがないので、的外れなことを書くかもしれないことを最初に断っておきます。
最近、国内の日本語学校に勤めていた知人に何気なく「そちらの学校ではN1(日本語能力試験一級)に何人くらい合格するの?」と聞いてみたところ、「毎年1人か2人」とのこと。
全体で数百人規模の学校だったと思います。
色々な日本語学校のデータを調べてみても、N1N2合格者が数えるほどしかいない学校がたくさんあります。
最近は非漢字圏の学生が急増していることを考慮しても、2年間の日本語教育の成果としてはどうなんだろう。
日本語学校の中で、N1合格者というのは毎年僅かにいる特別優秀な学生というイメージなのでしょうか。
もうすぐ7月に日本語能力試験がありますが、私が働いている中国の大学でも今2年生たちが必死に準備しています。
日本国内の日本語学校と同様、2年間の勉強後にN1N2を受験することになります。
昨年の日本語能力試験では、私の大学の日本語科学生60人のうち20人近くがN1に合格しました。
不合格の学生はまた受験するので、卒業までに半数前後の学生がN1に合格すると思われます。
今の4年生の代は3分の2以上が合格したので、去年は前代未聞の合格率の低さだと中国人の先生が嘆いていました。
私の大学は、中国の大学では中の中か、中の下クラスのランクだと思います。
以前働いていた別の大学も同程度のランクでしたが、やはりN1合格者は同じくらいの割合でした。
学生たちはずっとN1N2対策勉強をしているわけではありません。
日本語と関係ない授業、日本語関係であっても試験対策にほとんどならない授業もたくさんあります。
周りにN1合格者が沢山いれば、合格するのが当然の試験ということになり、学習のモチベーションも変わってきます。
N1合格者がわずかしかいない環境だと、N1なんて超難関で自分には関係ない試験だと学生が思いかねません。
日本国内の日本語学校で勉強するのは、進学目的で考えた場合、あまり効率が良くないと思うのですがどうでしょうか。
国内の日本語学校は、クラスが多国籍で日本人が文法も教えなければならないという特徴があります。
多国籍だからやむをえないのですが、日本人が日本語で外国人に日本語文法をわからせるというのはやはり非効率なやり方ではないでしょうか。
クラス全員が同国人で固まっているのなら、文法はその国の人が教えた方が絶対効率的だと思うんですよ。
あと養成講座に通っているときに感じたことですが、ピクチャーカードやレアリアなどを準備してすごく丁寧なやり方で導入をするのは、ちょっと過保護な気がします。
(子ども相手だったらいいと思うのですが)
学生が全く予習も復習もしない前提で授業を組み立てているというか。
しかも、その丁寧さに見合った効果がそこまであるのかという。
何の予習もせず白紙の状態で授業に参加してもいいんだ、教師が一から手取り足取り教えてくれるもんだという雰囲気になったら、語学学習の効率は落ちると思います。
語学は自分で勉強するのがメインであって、授業はその確認の場であるべきだと思います。
とはいえ、いくら丁寧な授業をやっても、学習意欲が低くて付いていけない学生が多いのかもしれません。
本当は日本語学習がメインではなく、アルバイトが目的の生活になっている学生もたくさんいるのが現実かもしれません。
それならば、なぜそのような学生を大量に受け入れるのか、という問題になります。
年間100万以上はかかる学費や生活費を、まだまだ貧しいベトナムやネパールの学生に借金を背負わせてまで支払わせ、N2に合格できない程度の日本語を教える意味というのも、うーん。
進学目的ではなく、「日本語学校に入学すること」「日本生活を体験すること」自体が一つのアクティビティとして目的になっているのなら、いいのかもしれませんが。
日本語学校に通う学生の目的の多くが「日本で進学したい」「将来、日本で就職したい」であれば、彼らの目的に合致しない商品を、それと知りながら売っていることになる。
ちょっときつい言い方をすれば、日本語学校やブローカーが、貧しい国の若い人から搾取しているということになりかねないのでは。
本当は、彼らのことを考えれば、現地の日本語学校や大学で効率よく学んでせめてN3程度までの力をつけ、日本では進学に特化した学校やクラスで学ぶのが一番いいと思うのですがね。
国内日本語学校関係者に読まれたら怒られそうなこと書いたけど、まだほとんど注目されてないブログだからこれでいいのだ(笑)
授業は「ライブ」だ
教育方針というほど大げさなものではありませんが。
教師が百人いたら百通りの教師像(教育方針)があって、どれが正解ということもないと思うのですが、一応私にも自分なりの教師像があります。
私は普段、教室で怒ることはほぼありません。
うるさい時は「しっ」と指を口に当てるなど他の学生に迷惑がかかる時は注意しますが、他の学生に迷惑がかからないなら内職したりスマホ弄っててもほっておきます。
勉強したくない学生に無理強いしても意味がないと思うので。
怒った方が教育効果が高いのならそうするべきなのでしょうが、怒り方にあまり自信がありません。
私自身が子供時代は本当に勉強しない(できない)生徒だったので、そんな私が「お前ら勉強しろ」と怒っても説得力がないしウソ臭くなってしまう。
大学生ともなれば、自分の進路について真剣にならざるを得ないはずなので、本人が「自分は日本語の勉強に興味がない。勉強しても意味がない」と判断しているようであれば、ほっとけばいいんじゃないでしょうか。
大学時代の専門と全く関係ない仕事に就いている人もたくさんいます。
私自身、自分に向いている仕事を求めて右往左往した挙句、40代になってからようやく在中国日本語教師という仕事を今後続けていこうと決心したほどなので。
(私の経験はあまり参考にしてはいけない例かもしれませんが)
教室では「怒らないこと」と、なるべく「笑顔を作ること」を心がけています。
十数年前、ワーキングホリデーでニュージーランドに住んでいたことがあるのですが、その時に通った英語学校の先生が私の一つのモデルになっています。
その先生はとてもフレンドリーで楽しく、生徒もリラックスした状態で遊びながら勉強できて、授業がこんなに楽しくていいのかと思うほど、日本人が「学校」に抱いているイメージとは違いました。
オセアニアの語学教育は、そのようなやり方が多いのだと後で知りました。
学校の授業というと、教師が学生より一段高い位置にいて、クスリとも笑わず一方的にお経のような講義をし、学生はただ聞いているだけ、というイメージが日本を含む東アジアに共通してあるかもしれません。
教師によっては、質問するのも憚られるような緊張した空気が漂っていたりします。
しかし、ニュージーランドの英語学校の経験から、教師と学生の垣根を取っ払い、学生をリラックスした状態にして気軽に喋れる空気を作った方が、語学学習のパフォーマンスはあがるのではと思うようになりました。
私が勤めているのは大学なので、語学学校ほど自由にできるわけではありません。
それでも、学生がなるべくリラックスして喋りやすくなるよう、できるだけ笑顔を多くし、冗談を言ったり、歌を歌ったり、芝居やパントマイムなどを取り入れて楽しい授業になるように心がけています。
思い通りに行かないと、つい緊張して笑顔を忘れてしまうことも多いですが。
授業は一つの「ライブ」だと思っています。
授業が「ライブ」であることの意味は、教師が投げかけたことに対して学生が反応する「双方向性」にあります。
ただ教師が一方的に喋り、学生が聞いているだけの授業なら、よくできたビデオを教室で流していればいいと思います。
授業ではなるべく学生にたくさんの質問を投げ、学生も気軽に話しやすい空気になっていると思います。
私は日本にいる時、たまに落語やお笑いのライブを見に行きます。
日本語教師としての専門知識の勉強をすることも必要だと思いますが、人を引きつけたり教室を盛り上げるヒントを少しでも得られればと思っています。